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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2015年1月17日 (土)

低地

木曜日のニュースで、今年の芥川賞・直木賞受賞作が決まったことを知りました。
この頃は読書の愉しみともすっかり遠ざかっていますが、直木賞受賞作の「サラバ! は去年からあちこちで凄まじいまでの賞賛を目にしていて、いつかぜひ読んでみたいです。

昨年手に取った数少ない作品の中で、最も心を揺さぶられたのはジュンパ・ラヒリの最新作「低地」 。こちらも、新聞やネットの書評でずいぶん話題になっていました。

インド・カルカッタの郊外で、片時も離れず育った年子の兄弟。
成長するにつれ、物静かで学究肌の兄と、活発で冒険心に富んだ弟の進む道は分かれていく。
兄がアメリカ留学を果たす一方で、弟は過激な政治活動にのめり込んでいき、両親と身重の妻の目の前で命を落とすことに…

若い弟の死から数十年にわたって、惨い出来事の傷を心に刻みながら、周囲の人々はどう生きたか。
遺された兄、妻、その娘を中心に、彼らが積み重ねていく日々の歩みが、著者(と訳者)特有の、深みのある文章で綴られていきます。

淡々とした語り口なのに、静謐な中にもずっと緊張感が漂っていて…
早く続きが読みたくて、でも最後のページにたどり着いてしまうのが惜しくて。
魅力ある長編ならではのそんな読み応えを、全編を通してずっと感じていました。

ジュンパ・ラヒリは、存命の作家では最も好きな人、と言っても過言ではありません。
彼女の作品に触れると、人は生まれ育った風土や、育まれた家族の在り様や、出会った人々や出来事によって、他の誰とも違うその人自身になっていくのだ、ということを、心の奥深いところでしっかりと再認識させられます。

「予習しておけるようなものではない。あとになって振り返り、一生かかって見つめ直し、何だったのかわかろうとするしかない。」

これは、長編第一作「その名にちなんで」の一文です。

ある面では運命の導きであり、一方では自身の選択であり。その両方が縄のようにより合わさって、人は一生の物語を作り上げていく。
一人ひとりが、「そのようにしか生きられない」人生を一歩一歩切り拓いている。
本を閉じた後は、そのことに改めて思いが及ぶのです。

去年から今年にかけて、私の周囲では大きな変化に直面したり、重大な決断を迫られる局面を迎えた人が多くいました。自分自身も含めて、のことです。

ままならなさも、人生の味わいのうちなのかもしれない。彫りの深い経験ほど心の奥行を増してくれるものなのかもしれない。
今の年齢になって、そんな思いを噛みしめながら、彼女の作品をじっくりと読み返してみたい誘惑に駆られています。

2014年11月21日 (金)

フラニーとズーイ

サリンジャーといえば「ライ麦畑でつかまえて」が最も知られた代表作だと思いますが、私が最初に出会った著作は短編集「ナイン・ストーリーズ」でした。

高校生の頃、愛読していた雑誌「オリーヴ」で紹介されていたのがきっかけだったと記憶しています。
冒頭の作品「バナナフィッシュにうってつけの日」でもう、ガーンと気持ちをわしづかみにされて、夢中になって読みました。
その後、当然のように手に取ったのが、同じ作者による「フラニーとゾーイー」でした。

それから四半世紀近い月日が流れ…
引っ越しの度に本棚の整理をして蔵書を減らしてきた中、今も大切に持ち続けている青春の一冊です。

もう、手に取って読み返すこともないのに、なぜか手放せないでいるこの作品が、村上春樹による新訳!しかもいきなり文庫で出版!…と、書店で賑やかに平積みされていたのが、今年の春のこと。

その時購入してみたものの、忙しさになかなか読む時間が作れず…
読書の秋も終わろうとする今頃になって、やっと読了しました。

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村上版新訳では「Zooey」は「ズーイ」と標記されています

あらすじをざっくりまとめれば、「フラニー」は週末のデートが台無しになる話、「ズーイ」はその後日譚で、打ちひしがれた妹を励ます兄の話。その二篇で「フラニーとズーイ」という一冊になっています。
とても限られた空間の、数十分の出来事の中に、主人公達が交わす膨大な言葉と意識の流れが濃密に詰め込まれて、その読み応えが懐かしかったです。

誰もがどうしようもなく心の中に飼っているエゴ。その取扱い方に戸惑い、いらだち、やり場のない怒りで周囲も自らも傷つけずにいられない…そんなフラニーの姿にすんなりと自分を重ね合わせていた、十代の頃が鮮やかに甦りました。

そして、当時よりは人生の経験を重ねて、繊細さと引き替えに図太さを手に入れ、フラニーの母親世代に近くなった私にも(笑)
「ズーイ」の終盤に突然訪れる、やさしさと光明に満ちた幕切れは充分に感動的で、初めて出会った時と同様、胸に染み入るものでした。

かつて足繁く書店に通っていた頃の品揃えに比べると、最近の文庫コーナーは本当に様変わりしたものだと思います。
転勤で引っ越しを経験した際、蔵書の扱いに辟易して、もう本はなるべく増やすまい…と図書館派になりました。
でも、この頃は絶版、品切れになるサイクルもとても早くなっていて、うかつに手放すと入手困難になるかも?というのが悩みどころ。

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先日あとむちゃんから「鳥獣戯画展」のお土産にいただいたブックカバー。文庫本ならではの魅力はこんな楽しみ方にもありますよね。学生時代は、文庫にかけてくれるカバーのデザインが、どの書店で買うかの決め手だったりしたものです。

本の読まれ方もどんどん変化している中、(あれもこれも春樹訳か…と、チラリとよぎる思いは別にして・笑)自分にとって思い出深い作品が再び脚光を浴びて、それをきっかけに再読できたのはありがたいことでした。

一冊の本に、時間を超えて出会うことで印象を新たにしたり、記憶を呼び覚まされたり。
そんな体験も読書の喜びの一つ。
本はどもだち、という言葉は本当なんだなと、改めて気づかされた次第。

2012年10月29日 (月)

困ってるひと

食欲の秋、だけでは天高く自分も肥える一方…というわけで(苦笑)読書週間なので本の話を。

ビルマ(ミャンマー)研究のフィールドワークに精を出し、NGO活動に取り組む女子大生だった著者が、突然自己免疫疾患系の難病を発症し、人生の一大転換と向き合わされることに…


その一連の体験を綴られた「困ってるひと」は、昨年の出版以来「ほぼ日」で大きく取り上げられたりして、話題になりました(しばらく前に文庫化されています)。

自分を守ってくれるはずの免疫システムが、暴走して自分自身を攻撃してしまう病気。
ご本人はあっけらかんとユーモアを交えて体験を客観視していますが、その症状や、痛みを伴う検査は、一読しても簡単にはイメージ出来ない壮絶さです。

ただ、自分や、身近な存在の人が思いもよらない形で健康を損なった時、当たり前のように思っていた「普通に生きる」ことの価値を思い知らされる、というのは誰にでも経験があること。
元気な人の世界と、そうでない人の世界の間には、暗くて深い河がある…という感覚を味わった方は、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

その境界線を超えるまでは、想像もしなかったこと。その境界線から戻ってきたら、いつの間にか目を背けて、遠ざけてしまうこと。
私も、自身が病気になったり、身内を看取ったり介護を手伝ったり…という中で、何度も経験したことです。

著者が使う
「(自分は)希少難病というクジを引いた」
という表現は、この世に生きる誰もが、病や看護や介護の当事者になる可能性を持っていることを、否応なく思い起こさせます。

医療や社会保障や福祉の現状に目を向けていくことや、苦境にある人の立場に思いを馳せることは、いつかわが身に現実の問題として降りかかることと無関係ではないんですよね。
人の辛さを、安易に「わかった」と言いたくはないけれど、せめて想像力を働かせられる人間でありたい、と思います。

最近、新聞等でも取り上げられているのですが、著者の大野さんが発起人の一人となって「わたしのフクシ。」というサイトが運営されています。
これは、twitterによって繋がった人たちの声で生まれた「見えない障害バッジ」の活動を広めるために立ち上げられたもの。

バッジについては、HPで紹介している文章を引用すると

「難病、内部疾患、発達障害など、社会で認知されず、福祉政策でも「制度の谷間」に落ち込み、サポートが受けにくい「目に見えない」障がい、困難、痛みをもつ人が数多くいます。
(中略)
『バッジをつけて、見えない障害を知ってもらおうよ。』」

抱えている困難を可視化できるツールとして、バッジを作ってつけてみよう、当事者でなく応援したい人も、バッジをつけることで啓発のお手伝いをしよう…と、平たく言えばそんな活動です。

実は今年の春先から、古い付き合いの友人に誘われて、私もボランティアの一人として活動のお手伝いをしています。

心身にまつわる困難に対しての考え方は人それぞれ違って当然と思います。
が、もし、一見してそれとわからない、それゆえに必要な助けや支えが受けにくいハンディキャップがある、という現実に何かを感じてくださったら、一度HPを覗いてもらえれば…と思います。

2012年3月17日 (土)

苦海浄土

今日の新聞の一面に「原発防災 30キロ圏決定」という大きな見出しの記事がありました。

島根原発を中心に30キロの円を描く地図には、出雲や、私たちの暮らす米子も登場します。
「安定ヨウ素剤」とか、「緊急防護措置準備区域」とか、今まで縁のなかった言葉が、にわかに存在感を増してきます。

テレビで、原発事故の影響でひどい理不尽に耐えている福島の人たちを見る。この人たちに何の罪もないだろうに、と思う。
お金の動きが複雑な仕組みで絡まって広がっているこの社会では、「因果応報」のかたちもとんでもなくややこしくて、原因を作った側は守られ、悲惨な結果だけが思いもよらないところで頭から降ってきたりする…

少し前に読んだ、石牟礼道子さんの「苦海浄土」のことを、何度も思い出します。

米原万里さんの「打ちのめされるようなすごい本」というタイトルの書評本がありますが、読む者に憑く、と巻末の解説にあったとおり、本当に「打ちのめされる」すごい読書体験でした。
元々は、高校生の頃、何のきっかけだったか忘れたものの、社会科の先生が「おすすめの一冊」として紹介していたのを四半世紀近く(!)頭の片隅にひっかけていたのです。

「水俣病事件は、わたしにとっては<わたくしごと>の一部にすぎない。<わたくしごと>の一部をもって、公け事の陰影の中に入るのみである。」

熊本の一主婦だった著者が、公害の犠牲になった患者たちに寄り添いながら、40年をかけて書きあげた三部作です。

読んでいて、怖ろしさに何度も背筋が震えました。教科書で公害事件を習ったとき、誰もこんな風には教えてくれなかった、と。

患者たちは、お金で口を封じられる。工場に依存している地元は、企業の味方をする。見舞金をもらったことで、近隣から妬まれる。色々な第三者が「運動」に関わってくる中で、患者たちは立場を違えて分裂していく…

世の中が「便利」や「発展」を目指して大きく歪む時に、一番弱い層からは必ず犠牲が出るのか、それが人間の業なのでしょうか。
同じ公式が繰り返されていく中で、私も、加害者の側であることからは逃れられない。

私が読んだのは、三部作をまとめた河出の「世界文学全集」版です。二段組756ページ。いつものショルダーバッグに入れて持ち歩いたら、重さで肩を痛めました(!)

それでも、のめり込んで毎日読み続けたのは、長い間どうしても忘れられなかった先生の言葉、

「こんなに美しい日本語を読んだことがない」

というのを、私も実感していたからです。私にとっては、読めてよかった、と心から思えた一冊でした。

2012年2月26日 (日)

鷺と雪

Photo

加齢と共に忍耐力と記憶力が衰えた結果として、シリーズものの「続きを待つ」ということが苦手になりました( ´・ω・`)

「イッキ見」「イッキ読み」でないと、細かい伏線が覚えていられないという哀しさ。
全巻刊行を待ってからイッキ読みしよう!と思って、待っていたことすらいつの間にか忘れる…というパターンさえあるのが怖い(苦笑)

北村薫のミステリ「ベッキーさんと私」シリーズもその一つで、図書館で見かけたおかげでまとめ読みして一気に、物語の世界に浸ることが出来ました。

今よりもっとわかりやすい、身分と貧富の格差があった昭和初期の日本。
上流家庭のお嬢様である主人公が、彼女に仕える凛々しい女性運転手「ベッキーさん」に支えられながら、周囲で起こる不可解な出来事を謎解きしていく連作です。

五.一五事件の年に始まる物語は、ミステリの小品としても、日本の近代史をなぞる歴史ものとしても読みごたえがありました。
この作家が主人公に据える女の子の、理屈っぽくも純粋で、まっすぐに「善きものでありたい」と願うところが、昔から好きです。

最終話となる「鷺と雪」では、二.二六事件の日に、それぞれの物語に散りばめられていたピースが一気に当てはめられて、鮮やかな幕切れを迎えます。
華やかな上流階級の生活を描きながら、少しずつ戦争へ向かう世相を匂わせていくのが哀しくもあるこの連作。最後の3ページで一気に、登場人物が住む世界の空気の色までガラリと変わるようで、何とも切ない…

都内は一面の銀世界だったという、1936年の2月26日に思いを馳せながら余韻に浸りました。

  

「鷺と雪」は直木賞受賞作品。文庫本の装丁画が品良く美しいです。